そもそも、仏教とはなんでしょうか。

現代において、仏教や寺院というと葬式のイメージが強いかと思いますが、仏教は、現世において人々が幸せに暮らすための教えです。

人は、人生の中で多くの苦しみや悲しみに遭遇します。そうした時に、その苦しみ、悲しみをどのように克服したらよいのでしょうか。そして、傷ついた心をどのように癒したらよいのでしょうか。

昔は、お寺の和尚さんに相談すると、悩みを聞いてくれて必要があればアドバイスをしてくれたりもしました。しかし、戦後の日本では、そうした風習が徐々になくなり、国民はみな経済的な発展ばかりに目がいき、一時はよかったものの、バブルがはじけて不景気になり、気が付いてみれば多くの自殺者と心の病気で苦しむ人々を抱える国になってしまいました。

現代の日本社会においては、「勝つ事」が要求され、問題を解決できないのは「努力」が足りないからといわれ、「負け」れば人間として失格のような目で見られてしまいます。

しかし、はたして全ての人がいつまでも勝ち続けることなどできるのでしょうか。もちろんそんなことできるはずがありません。それでは、勝った人だけが幸せになり、負けた人は必ず不幸になるのでしょうか。そして、そもそも、勝ったとか負けたというのは、何を基準に判断しているのでしょうか。

セレブになることが勝ったということでしょうか。だとすると殆どの人は負けていますから、とても不幸な社会ということになります。しかし、勝ってセレブになったら悩みや苦しみはなくなるのでしょうか。

きっと新しい悩みや苦しみが生まれると思うのですが、殆どの人がセレブになった事がないので、「お金が有れば多少の悩みや苦しみはお金で解消できる」と漠然と考えているのではないでしょうか。

実際にそうかもしれません。しかし、そこで得られる満足というのはどのようなものでしょうか。それは「他人には出来ないようなことでも自分はお金を使って出来る」ということではないでしょうか。つまり、他人と比べることでしか自分の幸せを感じる事が出来ない人間になるということです。

そして、上には上がいます。石油産出国の王様になりたいと考えている人もいるかもしれませんし、自分が住んでいる地域で一番の金持ちになりたいと考えている人もいるかもしれませんし、どの程度の希望があるのかは分かりませんが、例え世界一になったとしても、死ぬまで世界一でいられるとは限りませんし、上がった分だけ落ちたときの落胆ぶりがどのようなものかは想像できます。

そして、そのことに怯えながら生活しているとすればとても不幸な人生です。

この世の中には多くの苦しみが存在します。そしてなぜ苦しみが生じるのかといえば、「世の中が自分の思い通りにならない」からです。

しかし、よく考えてみれば、こんな事はあたりまえのことです。例えば10人の人間がいたとすれば、10通りの「思い」があるわけですから、それらを同時に満たす世の中に変えることなど出来るはずがないのです。

しかし、こんな簡単な理由があるのに、殆どの人は、自分の思い通りにならない世の中に対して不満を持ち、疲れ、苦しみ、落胆するのです。

つまり、「現実を認めることが出来ない」のです。

みなさんは、受験をしたことがあるでしょうか。

合格すれば嬉しいでしょう。しかし不合格だと絶望してしまわないですか。でも全員が合格できるわけではありませんから、必ず誰かが不合格になります。それにも関わらず「自分が不合格になる事は受け入れられない」のです。

勉強不足だったのかもしれませんし、受験日に体調が悪かったのかもしれませんし、なにか重大な事が起こったのかもしれませんが、不合格になったという事は事実なのに、そのことを受け入れることができず、「こんなはずじゃなかった」「これからどうしたらいいんだろう」と悩み、苦しんでしまい、中には自殺してしまう人もいます。

不思議な事だとおもいませんか。なぜ「合格」か「死」かという二つに一つの選択しかないのでしょうか。

頭では、いろいろな人生があると思っていても、心が成長していないと、現実を受け入れることが出来なくなって、世の中と自分の人生に「絶望」してしまうのです。

そして、多くの大人達が唱える幸せの形だけが、自分が幸せになる唯一の方法だと思い込んでいることも原因だと思います。

受験に失敗した人が大会社の社長になっている事も知っているし、いじめられっこだった人が世界チャンピオンになっている事も知っているし、そのことを頭では解っている。それでも、心が受け入れられないから苦しみや絶望に変わってしまうのです。

仏教とは、そうした生き方とは無縁の生き方をすることで、幸せに暮らす方法です。無縁の生き方というとまるで世捨て人のように暮らすように聞こえるかもしれませんが、そうではなくて、外見上は今の生活とまったく変わりがない生活をおくっているのだけれども、心が成熟しているので、他人からは不幸に見える生活でも、本人はとっても幸せで、人生を楽しんで暮らしているという事です。

例えば、さっきの受験の話でいえば、受験に失敗する事で絶望している人もいるでしょうが、同じ境遇であっても、「一流大学を卒業して社長になっても当たり前すぎて誰も関心持たないだろうけど、いまどき中卒(高卒)で社長になればみんなに注目されて、将来は取材が殺到するかもしれない」と考えてニタニタしている人もいるはずです。そして両者の境遇や外見上には何の違いもなくて、考え方の違いがあるだけです。

さらに、受験が上手くいこうが、失敗しようがそんな事に何の関心も無く、「自分の幸、不幸にはなんの影響も無い」として一喜一憂しない人もいるはずです。

そして、それぞれ全てが同じ事をどのような「視点」で見ているかが違うだけなのです。

一つの価値観からは一つの道しか見えてきません。しかし、色々な価値観を受け入れる余裕があれば、色々な道が見えてくるはずです。

そして、そうした時に大切なのが、「思い込みや偏見で物事をみて判断しない」ということです。つまり、目の前に起こっている「事実」を、自分の感情や立場などから見るのではなくて、事実をそのまま観ることが大切であり、その為にはいつも心をニュートラルの状態にしておくことが大切なのです。

そして、このニュートラルの状態の事を、仏教では「空」といいます。

こういう状態で暮らせるようになれば、どんな環境であっても幸せに生きられると思いませんか。

これが仏教の入り口です。

言ってみれば、現在の日本社会が、経済発展の中から幸せをつかもうとしているのに対する、逆転の発想ともいえます。

現在は大変な仏教ブームです。書店にはお寺の巡礼や、お経の解説本などが沢山並べられており、ベストセラーになっているものもいっぱいあります。

戦後目指してきた、日本人の価値観が、また変わろうとしているのかもしれません。

みなさんは、バブル崩壊後に生まれた、または育った人達です。これまで日本が信じてきた神話が崩れた後を生きていく人達です。親の世代は道を見失って迷っています。ですから、なにが幸せで何が不幸を生むのかという事を、みなさん自身がしっかりと見つけていかなければならず、大変かと思いますが、2500年もの間、多くの人々の幸せの道しるべとして伝えられてきた仏教に興味がありましたら、ぜひ一度学んでみてください。もしかしたら、あなたの求めている答えを見つけることが出来るかもしれませんよ。
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